あたらしい目玉を求めて

Text 那須ミノル
2026.4.30

いつも車で通過するだけの通勤路をあえて歩いたり、自転車に乗ったり、しゃがんで子どもの目線になったりするだけであたらしい発見がある、とよく言われる。あったはずなのになかったものが、あったものとして立ちあらわれてきて目に映るのはたのしい。それまで見ていたはずなのに見えていなかったという不思議もあわせて、なんだかあたらしい季節の風にはじめて触れたような新鮮さがある。

この街に生きて在るのがあたりまえになって麻痺した者(=わたしたち)にとって、街のちいさな変化の兆しを敏感に感じとることや、固定されがちなじぶんの目に揺らぎを与えることが、日々を生き生きと生きるためには欠かせないと頭ではわかっていても、そうかんたんではない。杉浦日向子『百日紅』(ちくま文庫)のなかで屋根にのぼった北斎は「犬と人間と鳥は別々の風景を見ている…… そうだ 俺ァ自在に景色を見てえのよ 人間の目玉だけじゃ物足りねえ」と善次郎(若き日の英泉)に語りかけているが、まさに必要なのは「あたらしい別の目玉」かもしれない。

『real local Yamagata』という街を見つめるWebマガジンの編集をするようになって10年余り。幾人もの市民や移住者のかたたちにお話を伺ってきた。おなじ街に暮らしていても皆それぞれに違う街をその目に映していた。なにを見ているかも違う。なにを見ていないかも違う。見ることひとつのなかに、見ないことひとつのなかに、その人の価値観も、姿勢も、あらわれている。いろんな目玉があることの不思議も、いろんな目玉があるからこそ幾重にも存在する街の風景の揺らぎも、もっと面白がっていい。

あたらしい目玉がほしい。ふだんのじぶんの目では捉えることのない、まだ透明であるものを見るための装置としての、まったくべつの目玉が要る、と思った。じぶんの楽しみのためでもあるが、新鮮な目玉はこの街のためにもなるはずだという予感もあった。何十年生きてきたこの街でもまだ見ていない風景がある。何十年通りすぎてきたこの道にもまだ見えていない風景がある、ということの驚きは、使い古したわたしたちの目玉に、謙虚さとわくわくを与えてくれる気がした。

川村恵理に仕事を依頼するにあたってお願いしたことは、ただひとつ。この街のことを調べないでほしい、ということだった。日々を東京あたりで過ごしている川村にとってまるで「知らない街」であるこの街を、知らないままに彷徨って、その目に映った気になるなにかを撮るようなスタンスでいてほしかった。シティガイド的なものなどに触れ過ぎてしまっては、せっかくの新鮮な目玉がその新鮮さを失ってしまったり腐りやすくなってしまったりするかもしれない。そのことを恐れた。目玉はなんといっても鮮度がいのちなのだ。

(このテキストは、川村恵理写真集『知らない街』に寄稿したものです)